昭和41年05月05日 夜の御理解



 信心の徳と云うか、徳を受けていく為に、日々信心の稽古をさして頂いていく訳でございますけれども、まぁ信心の光、自分の心の中に光を頂いておるから明るい。明るい心を持っておるから、どの様な暗いところに出ても驚かんで済む、慌てんで済む。信心とはそう言う様なものでなからねばならぬと思う。ところが信心の光というものは、例えていうならば、丁度そのランプの光のようなものだ。芯を出せば沢山明るくなる。ちっと締めれば小さくなる。
 それでそんならずうっとそれでよいのかというと、ホヤを毎日毎日今の子供は知らんかも知れませんですね。あのランプというものは、毎日毎日あのホヤを掃除致しました。ホヤを磨いてあげておらんと、暗くて役に立たない様に、信心の光というのも確かにそう、これだけ信心の稽古をしたから、これだけ磨いたから、今この位明るいからとほっといたらすぐ暗くなることになる。
 そこにその生きた神様の信心をさして頂いていると、生きた信心をさして頂いていると、自分の心が暗くなっているか、明るくなっているかそれは分からんのですけれども、生きた神様ですから、ホラ心が曇ったぞと言う様に、様々な問題を以てお気付きを下さる。日々そう言う様な問題に取り組んで、自分の心を何時も磨いて行くような、ホヤを清めていくと言う様な毎日の信心、そこん処を教祖は「信心は一生が修行じゃ」と仰っておられる。そんな事ではなかろうかと思うです。
 そうして私共は、そんな処をそういう光をどれだけ現し、どれだけ頂いて私共があの世に行く時です、どれだけ沢山の光を持って行けるかと言う事。その光はもう電気の様なものじゃあなかろうか。いちいちホヤを磨かんでいいそれが徳。ですから私共が日々磨いても、その光をいうものを頂き続けてゆかねばいかん。それを共々にその光を大きくしてゆき乍ら、そのホヤを私は磨き上げてゆかねばいかん。
 ですから自分の思う様にるとか、問題が無いと言った様なな時には、迂闊にしておるとホヤが曇っておるです。ですから途端に困った事が起きて来ると、平穏無事な時途端に困った事が起きると、さぁどうしようかと慌てにゃならんのです。けれども日々の中に生きた神様を頂いておりますと、曇っておるともう曇っておる事が、すぐ気付かせて頂けれる。問題を以て様々な難儀なら難儀と、言った様な痛い痒いと言う様な事からです、こりゃ曇っておる事が分かる。
 ですから毎日毎日取り組んで磨いて行く。だから何時も明るく頂いて行ける。日々が信心修行であり、一生が信心修行であるというのは、そのホヤ磨きの事をおっしゃったのだと、私は思うのです。そこに只、私達がですね、百の光を頂いて終る人、千の光を頂いてゆく人あるじゃないかと、こう例えばお徳とか申しますけど、お徳を頂いてというけれども、私しゃ貸ものだと仰る、神様から借り物なんだ。
 だから借り物だと言う事は、間違いないのだけれども、私共が一生借り通させて頂けば、その方のもんじゃと、申してあるのですから。私共は借り通させて頂いてから、自分のものにしてゆかねば、あの世にも持ってゆけ、この世にも残しておけれる、というものにしてゆかなければならない。日々の信心生活の中から生まれて来る喜び、そして安心、それは日々一日でも一時でも、磨くということに焦点を置かずに。
 それを綺麗にして行く事に心を使うてなかったら、それはもうすぐ曇ってしまう。信心があってもなくても左程変わらぬ様な事にすらなってしまう。それこそ信心とは、日々が新でなからねばならんというのもです、新な心でなければ曇ったことが分からん。どうぞ丁度万歩の光を頂く様なものである。日々ホヤが拭き上げ磨き上げてゆかねば、その光が正常に保ち続けて行く事は出来ないという事です。
   どうぞ。